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1. 忍者の基本
忍者とは「忍び」のと呼ばれ、史料上確実に存在が確認できるのは、南北朝時代(1336–1392)以後で、その起源は13世紀後半に荘園制支配に抵抗した悪党にあると考えられる。忍びは、乱波(らっぱ)・透波(すっぱ)・草(くさ)・奪口(だっこう)・かまりなど、地方によりさまざまな名前で呼ばれ、忍者(にんじゃ)という呼び名が定着したのは昭和30年代になってからのことである。戦国時代の忍びは、各地の大名に召し抱えられて、敵国への侵入、放火、破壊、夜討、待ち伏せ、情報収集などを行ったが、最も重要なのは敵方の状況を主君に伝えることであることから、極力戦闘を避け、生き延びて戻ってくる必要があった。

伊賀・甲賀地方は京都にほど近く、まわりを山という天然の要害に取り囲まれていることもあり、大名勢力が弱い一方自治が発達し、一揆を形成して武装していた。そのため、ときには近隣諸国に傭兵として雇われ、堀を越えて城に侵入し、戦闘に加わったことが確認できる。伊賀・甲賀の自治は、織田信長軍によって壊滅的打撃が加えられるが、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変後に、徳川家康が堺(大阪府)から伊賀・甲賀を越えて白子(三重県鈴鹿市)を経由して本拠地である岡崎(愛知県)に逃れる際、伊賀者・甲賀者は山中の護衛をしたほか、さまざまな戦いで家康の先陣をきって戦ったことにより、家康は伊賀者・甲賀者を取り立てることとなった。

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2. 忍者の歩み
天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸に入府すると、伊賀者・甲賀者は江戸城下に住み、大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察などを行うほか、寛永初年(1624)ころまでは隠密としても活動した。また鉄砲隊として甲賀百人組、伊賀百人組に編成され、百人番所に勤番で詰めて、江戸城大手三之門の警備を行ったりしたほか、諸大名が抱えることもあった。『軍法侍用集』などでは、伊賀者・甲賀者は忍びの中でも最も優れていると記述されている。江戸時代になって平和な時代が訪れると、戦闘をすることはなく、情報を得たり警護をすることが主な任務となり、隣国の政治状況を知って自国の政治に活かすということもしていた。忍者というと屋根裏に潜んで会話を盗み聞きするイメージがあるが、実際はその土地の人と仲良くなって情報を聞き出すことの方が多かったようである。

17世紀中葉になると、忍びの方法や心構えなどを記した忍術書が書かれるようになった。延宝4年(1676)には、忍びの間で伝えられてきた技が伝授されなくなってしまうという危機感から、中国古代の兵書『孫子』をはじめ、さまざまな兵法書・忍術書からまとめ上げた『万川集海』が藤林保武によって編纂された。ここには登器・水器・開器・火器などの道具も絵とともに記されているほか、その他忍術書には、交際術・対話術・記憶術・伝達術・呪術・医学・薬学・食物・天文・気象・遁甲・火薬など多様な記述がなされており、忍術とは、総合的知識に基づくサバイバル術と位置づけることができよう。

実在の忍びの者が姿を消していく一方、江戸時代の小説・芸能では、虚像としての忍者が描かれるようになっていった。江戸時代初期の忍者は忍術を使って忍び入り、大切な物を盗んでくるというパターンで描かれた。この話でよく知られているものが、石川五右衛門の話である。ここで用いられる忍術は、妖術の影響を受けて、摩訶不思議な術に変化していった。妖術とは隠形の術、飛行の術、分身と反魂の術、蝦蟇の術、鼠の術、蜘蛛の術、蝶の術などで、中国の小説の影響を受けてさらに発展を遂げたものだが、この結果、巻物を加えて印を結ぶとドロンと消えたり、ガマに変身する忍者が生まれた。また、江戸後期になると、歌舞伎や浮世絵などにおいて黒装束を身につけて手裏剣を打つという現代につながる忍者のイメージが形成された。

大正時代になって、立川文庫から『猿飛佐助』が発刊されると一大忍術ブームが巻き起こった。立川文庫は講談を筆記したわかりやすい文章で、漢字にはすべてルビが振られており、丁稚奉公の少年や小中学生に愛読され、その後『霧隠才蔵』『百地三太夫』など相次いで「忍術名人」を扱った作品が生み出された。それとともに、尾上松之助主演の忍術映画『豪傑児雷也』が大ヒットし、子どもたちはそれをまねて、忍術だと称して高いところから飛び降りて骨折したり、走ってくる列車の前に立って列車を止めさせたりして、社会問題にまでなった。一方、大正時代には不思議なものに対して「科学的」視点で解明しようとする気運も高まり、忍術を合理的に解釈しようとする試みもなされるようになった。その代表が伊藤銀月で、忍術を現代社会にどのように活かしたらよいかといった視点から忍術の研究を行った。その後忍術に関する研究は、甲賀流忍術第十四世を名乗り、自ら実演も行った藤田西湖、上野市長を務めた奥瀬平七郎らへ受け継がれていった。

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戦後には、女性忍者であるくノ一が活躍する作品が登場した。『万川集海』にはくノ一を一字とした者(すなわち女)を忍びに入れることを「くノ一の術」というと記述しており、男性の忍びと同様の活動を行うわけではなかった。それが戦後における女性の社会進出に呼応して、くノ一がさまざまな作品で描かれるようになった。

1950年代末から60年代には忍者小説が続々と出版された。司馬遼太郎『梟の城』、村山知義『忍びの者』、山田風太郎『忍法全集』などが代表的作品である。『忍びの者』『隠密剣士』といった映画が大ヒットし、そこでは黒装束を身にまとい、塀を跳び越えて素早く走り、水の上も沈むことなく駆け抜け、手裏剣を立て続けに打つ忍者が活躍した。

子ども向けマンガでは忍者が恰好の素材となり、テレビでも放送されて大人気となった。『サスケ』『カムイ伝』『伊賀の影丸』『仮面の忍者赤影』『忍者ハットリ君』『科学忍者隊ガッチャマン』『忍たま乱太郎』など、それぞれの時代を反映した忍者作品が制作された。

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3. 国境を超えた忍者
海外においても忍者は大人気で、ショー・コスギによる『Enter theNinja(燃えよNINJA)』を皮切りに、アメリカ中心に忍者映画が制作され、『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』『NARUTO』といったアニメやゲームによりNinjaファンになった若者も多く、数多くのゲームや忍者関連グッズなども製作されている。

海外では忍術を武術としてとらえる傾向が強いが、忍者に対して深い関心を示すのは、忍者という「神秘的」な存在にたいする憧れや、「忍術の「忍」は忍耐の「忍」」といった日本の伝統的価値観に対する理解もあってのことだろう。たとえ自分の名が世に知られることがなくとも、実直に耐え忍んで自分に与えられた任務をこなし、最後には大きな仕事を成し遂げるという忍者の精神は、日本人の生き方をよくあらわしていると言えよう。忍者の知恵の中には、近代日本の発展を支えてきた技術力、勤勉さ、組織力、忍耐力といった日本文化の諸相が凝縮されており、まさに忍者は日本を代表する文化と言えよう。